歌と感情と機械
「氷川きよしって、ロボットみたいに歌うけど、みんな感動してるんだよな・・・」
僕も感情のない歌うロボット「セーモンズ」を作ったこともあり、この「歌と感情」の問題は気になっていました。
で。先週の週末、金沢市が毎年開催しているイベント「eAT金沢」にいってきました。今回は、セミナーで、坂本美雨さん、川井憲次さんとトークセッションを行いました。テーマは「トキメキサウンド」。僕もふくめて音楽を仕事にされているみなさんなんですが、
明和電機・・・・楽器を作る
川井憲次・・・・作曲をする
坂本美雨・・・・歌を歌う
というそれぞれの分野のお話をお聞きできました。
「eAT金沢」の醍醐味は、旅館を借り切って、大広間でゲストも一般参加者もごちゃまでで、朝まで飲んで、語り合うという宴会。、まるで「大規模な友達んちの飲み会」なんですが、ここで、坂本さん、川井さんと、「歌と感情」についてのお話となりました。
坂本美雨さんのお話。
「私は、自分の中に、どうしても歌にのせて主張したいものがない。そのことで悩んだけれど、あるとき、どんな人間も歌う体をもらって生まれてくることに気がついた。ただ歌う、という楽器のような自分の体のことを意識しはじめて、呼吸法などを学ぶようになった。もしかしたら、大昔の歌手というのは、ただ、大自然や、神の声を、からっぽな自分を通して歌として表現していたのかもしれない」
こんな感じだったかな?(間違ってたらすいません>美雨さん
ここで、僕がおもしろいなあ・・・と思ったのは、「歌手には個人的な感情はいらないのでは」というニュアンスがあることです。
たしかに、最近の歌は、「あなたの道をゆけー、自分を信じろー、勇気を持ってー、人を愛しなさーい」みたいな、説教くさい歌が多くて。そんなことお前にいわれたかないわ!と、40を過ぎたからか、ムカついてしまいます。僕が聞きたい歌は、もっとロマンチックであったり、一編の映画を見たような素敵なフィクションであったり、びっくりするほど美しい詩だったりしたいのになあ。と。
僕は歌手というのは、現代社会のシャーマンで、たくさんの人のこころの中に歌をすんなり進入させる、「一種の異能者」だと思うんですが、それはむしろ自分というものを空っぽにするからこそできることだと思います。(恐山のイタコのように)。坂本さんのお話は、その自分の考えにとても似ていました。
さて、僕は2001年に、人工声帯で歌うロボット「セーモンズ」を作ったんですが、こいつには、当然ですが、「感情」はありません。
でも、このロボットの歌声を聴いて、感動する人がいるわけです。
このロボットは、感情もないし、シャーマンのような天啓もなくて、ただただ、コンピューターのプログラムにしたがって歌っているだけです。つまり、そこには「歌うしくみ」しかない。だから極端なことをいうと、
「人は演出された歌うしくみがあれば、感動してしまう」
ということになる。人は、歌手の感情にグッとくるのではなく、、感情の演出にグッとくるわけです。
これに近いことを、作曲者の側から、川井憲次さんがおっしゃっていました。川井さんは、以前、身内にご不幸があったときに、どうしても「楽しい曲」を作らなければならない仕事があったそうです。普通の精神状態なら、とても、そんな曲書けないんですが、川井さんは書いたそうです。で、結論。
「どんなに感情が悲しくても、楽しい曲は作れる。感情と、創作は別である」
と。
こうしたみなさんのご意見を総合すると、やはり「歌」や「音楽」というのは、やはり個人的な感情とは切り離された、客観的な創作物なのだなあ・・と思いました。
たとえば僕らは「ミ、ラ、ド」のようなマイナーコードを聞くと、それだけで悲しい気持ちになりますが、同じ和音をアフリカの民族に聞かせても、ぜんぜん悲しくないということもあるそうです。つまり、それは創作された「悲しみ」を、僕らは小さいころから刷り込まれているからです。
人は悲しいとき泣きますますが、これも、ひとつのコミュニケーションです。
他者に向かって、自分悲しみを伝達したほうが有利なときに「目から水分を出す」「声をはりあげる」という肉体的な信号を送る。それが、「泣く」というアクションが生まれた出発点かもしれません。お葬式で登場する「泣き女」のような職業が成立するのは、そういうベースがあるからだと思います。
肉体的な演出力があがれば、歌手は人を感動させることができる。これは、ひとつの答えだと思います。しかし本物の歌手は、それらを超えて、時に神がかり的に自分を超えるときがある。ライブなどを見てると、ときどき、そんなシーンに直面して、ゾクッてくるときがある。坂本美雨さんも、この辺のメカニズムに興味を持っていました。
これについては、もうちっと考えないと。
わかったら、またブログに書いてみます。
関係ブログ>>「オタマトーンの声が出るしくみ」






『インド古典音楽』では、
1)ドレミファソラシドをさらに細分した22音をいったんごちゃ混ぜにし、
2)膨大な組み合わせの中から見いだした特長的なスケールやフレーズを、
3)時刻や季節や風物と織り交ぜつつ、本の中に蓄え置いておき、
4)ふさわしい時に取り出し、特長を壊さないように、
5)即興で歌い、即興で楽器を奏でます。
即興では、自我は不要です。
いいメロディ作曲してやろう、感動させてやろうとは考えません。
『あとは神様がやってくれる』から。
実際この手法で名人がプレイしますと、
さほど育ちに関係なく、多人数をゾクッとさせることができます。
音響行為によって立ち現れたシーンと、
聴く人の遠い遠い命の記憶とが合致した瞬間!が、
ゾクッの正体ではないかと考えられています。
でも本当のところはインド人も解りません。
解らないから、音楽で辿り着こうと頑張っています。
最低7回は生まれ変わらないと解らないそうです。
私も明和電機さんに倣って楽器を作って演奏していましたが、
このまま俺様ワールドに漬かっていてはダメだと直感し、
神が「作曲する」現場、
神が「歌を歌う」現場=インド音楽界に、
「楽器を作る」ところから殴り込みをかけることに決めました。
…魚打棒1本持って、インドマグロを仕留めに行くようなものです。
WAHHA GOGO展inアトリ工 ではたいへんお世話になりました。
また自転車で通りかかります。
投稿: 川崎ピースケ(サーランギ製作・演奏) | 2010年2月 4日 (木) 04:09
はじめまして、いつも記事を読ませていただいて、共感することも多く、更新楽しみにしています。
自分も趣味で曲作りをするのですが、その際、和声による感情表現は誰かの創作によって産み出されたのか、自然科学のように発見されたものなのか、考えこんでしまうことがあります。
そんな折今回の記事を読んで、「同じ和音をアフリカの民族に聞かせても、ぜんぜん悲しくないということもあるそうです。」という部分に興味をひかれました。
もしよければ、この部分について詳しく書かれている本やwebサイトなどがあったら教えてほしいです。
突然のコメントで失礼がないか心配なのですが、気になってコメントさせてもらいました。それでは!
投稿: Ngaze | 2010年2月 4日 (木) 16:11
TVで学者さんみたいな人が同じことを言ってました。泣く、は人へのアピールで、コミュニケーション方法なんですって。ならば、もらい泣きってなんなんでしょうね。私はすぐもらいます。感情はもらいたくないと言っています。でももらいます。何のアピールなんでしょうか。とりあえず、社長はいつもいろいろ考えていますね。
投稿: EPM | 2010年2月 5日 (金) 15:07
お芝居で、名優がお品書きを読むだけで、聴衆は感動し涙した。
これも歌の状況と同じではないでしょうか?
投稿: ぴろぴろ | 2010年2月10日 (水) 09:06